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FOR SECOND GRADE

「私がゼミ生に願うこと」

 

「人生とは邂逅である」― 昭和期の文芸評論家・亀井勝一郎の言葉です。

もし、この人と会うことがなければ、もし、この場に居ることがなければ、今の自分はなかった。そう思うことがたくさんあります。それどころか、私はこの頃、すべての出会いがかけがえのないものと、とてもいとおしく思えるようになっています。まさに「一期一会」の心境です。

ゼミ生諸君との邂逅もかけがえのないものです。大学最後の2年間、諸君は「国際政治」を通して学問研鑽に励み、切磋琢磨しあうために、このゼミに集まりました。こういう仲間を「同学の士」と呼びます。その意味を深く胸に刻み、精進を重ねてほしいと思います。

 

大学は、そこに生きる人々の「思索」と「想像」の営みによって、無数の「価値」を無限に生み出す「創造」の拠点です。この世においては、人間のみが「思索」と「想像」によって時空を自由に飛び回ることのできる「創造の主体」です。そうした人間が人間であることの本領を発揮するために作られた最高の場こそ大学です。大学生たる諸君は、そうしたまたとない機会 ―思う存分に「思索」を深め「想像」を広げる特権― を与えられた存在です。ぜひ、与えられた特権を満喫してほしいと思います。それが第一の願いです。

そのうえで、諸君には「国際政治」という自ら選択した専門分野を徹底的に学んでほしいと思います。それが第二の願いです。もちろん学問に境界はありません。しかし、学びを深めるためには一つの専門分野を究めることが不可欠なのです。それは、決して「思索」と「想像」の範囲を縛り付けるためではありません。むしろ、諸君一人一人の「思索」と「想像」がやがて自由に無限にあらゆる分野へと拡大するためには、深く強く太い根を張ることが必要だからです。私自身、学部時代に「数学(関数解析学・多変量解析)」を徹底的に学び、やがて大学院で「社会工学」「社会心理学」へと「思索」と「想像」を発展させ、留学を通じて「国際政治」「国際関係」の専門研究者となりました。今ではすっかり専門を異にしていますが、私の「思索」と「想像」の根は、学部時代に「数学」という一つの専門分野を、寝食を忘れて徹底的に探究したことで深く強く太くなったと実感しています。

 第三に、諸君には大きな夢を抱き続け、決して小成に甘んずることの無いようにと願います。ゼミは諸君がいよいよ社会の一員となるための最後の準備期間であり、諸君の人生は今から始まります。どんな一歩もはじめは小さな一歩です。しかし、描いた夢の程度によってやがて到達する頂の高さは大きく違います。物事は思い描いた程度に実現します。諸君の将来を決めるのは、今踏み出す一歩の大きさではなく、諸君が描く夢の大きさによります。夢を抱くとは、いわば、大地に種を蒔くようなもの。つまり、常に良き種を蒔き、必要な世話を施しながら、蒔いた種がやがて美しい花を咲かし、あるいは実を結ぶことを思って心が躍る心境です。多くの人は「希望を実現しよう」と焦ります。ところが「実現できる」と思って悠々と精進する人はわずかです。「なろう」と思うより、「なれる」と思って精進することこそ大切です。その意味で、意志の力よりも想像の力の方が強いのです。また、夢の実現には忍耐が必要です。春の白梅は厳冬に耐えてこそ咲き、秋の稲は酷暑に耐えてこそ豊かに実ります。成長とは忍耐の賜物です。水槽を水でいっぱいにするのに、蛇口の栓を開いてからしばらく待つのと一緒です。水槽が大きければ当然、待ち時間も長くなります。楽しみに精進して待つのです。大成した人(大器)は皆そのようにして晩成しました。彼らは、自分を捨てて頑張る(無理に無理を重ねる)のではなく、自分を忘れて物事に励んできました。無我となって(自分を忘れて)励む人は迅速に進歩します。

さて、諸君はリーダーになることを目指してこのゼミで研鑽に励んでいます。心が清らかで、とても明るく、正直な人ばかりです。しかしながら、皆のようにまじめな善人はどうしても自分の「正義(規準)」にこだわり、高慢で、心狭く、他を裁き、自力のみに頼り、その結果、自縄自縛に陥りがちでもあります。それ故、特に諸君には、すべての人を受け容れることのできる寛大な心を持った包容力のある人になってほしいと思います。それは決して他に妥協せよということではありません。峻厳なる気高い志を大切にしながらも、赦しの深い、智慧のある、まわりのすべての人を活かす人になるのです。これが私の諸君に向けた第四の願いです。

これら四つの願いは、そのまま私の修行のテーマでもあります。ともに研鑽に励みたいと思います。

 

(平成29年6月18日記)

​畠山 圭一

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